七里の渡し、今むかし

江戸の日本橋から京の三条大橋へ至る東海道、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が暴れん坊だったので、尾張の宮宿から伊勢の桑名宿までは七里の渡しといわれた渡し船で渡っていたことは皆さまご存知だと思います。
いつの時代でも船が苦手な方はいらっしゃるわけで、そんなあなたに陸路で行ける「佐屋街道」という街道が整備されましたが、立ちはだかる暴れん坊はいかんともしがたく佐屋から桑名までは「三里の渡し」で渡っていました。あぁ、これは今回のネタではありませんね。

街道歩きを趣味としていれば、今はないこの渡し船に乗ってみたいのが人情ですよね。
名古屋のあるNPOが毎年1日だけこの渡し船を運行しているので、10月26日に渡しに乗ってきました。
40人くらい乗れる船で宮から桑名まで約2時間半、渡しだけでなく宮、名古屋港、桑名などのガイドさんのていねいな説明があって、充実した時間を過ごすことができました。

f0307787_13235372.jpg
f0307787_13235466.jpg
宮を出た船は

f0307787_13235306.jpg
途中、自動車運搬船やキリンさん(ガントリークレーン)を見たりしながら

f0307787_13235457.jpg
桑名へ至ります。桑名の渡しは伊勢湾台風で大被害を受けた後、堤防に囲まれてしまいました(;_;)

当日GPSロガーで記録した渡しの航路がこれです。御多分に漏れず名古屋港も埋め立てが進んでいますので、往時の航路がどうだったのかが気になることろです。
f0307787_12575490.jpg
「気になる~」などと Twitter でつぶやいておりましたら、なんとフォロワーさんから貴重な資料をご提供いただきました。
で、少しは自分でも調べてこしらえたのがこの江戸時代の航路地図です。

f0307787_12575843.jpg
縮小されてしまっているとはいえラムサール条約に登録されている藤前干潟を避け、暴れん坊っぷりをいかんなく発揮して形成された輪中を縫うように桑名を目指しています。
名古屋港も木曽三川も干潟や川からの流砂で水深が浅く、潮の干満や時代によって航路が変わっていたようです。
江戸時代の地形は詳細な地図がないので、まぁこんなもんだったんだと思ってください。宮の南が海だったり、桑名の上流の長良川、揖斐川がこうだったわけではありませんm(__)m

さて、江戸の地図と現代の地図を重ね合わせてみると ……

f0307787_12580280.jpg
輪中は埋め立てられて陸地に取り込まれてしまっていますが、藤前干潟はなんとか?保護されている様子がわかります。
私が乗った船は文政年間(1804~1830)の航路に沿うように航行しており、天保年間(1830~1844)の干潮時の航路に沿っているのが現在の国道23号線ですね。
文政年間に沖を大きく回っていたのを少しでも時間を短縮しようと輪中を縫うように航路を変更したのでしょうか?
沖回りは10里、砂州の内側回りが7里だったようです。
江戸時代は30人乗りくらいの帆船を3~4人で運行していたそうです。

私が乗った船以外にも船をチャーターして渡ることができるようですが、どちらにしてもなかなか機会に恵まれませんね。
では佐屋街道を、といっても佐屋川が河川改修でなくなってしまったので三里の渡しをトレースすることは困難です。
どうしても七里の渡しを歩くというのなら、国道23号線なのでしょうか。この国道、交通量も多く歩くのは大変という情報もありましたけど。

普段はチャンスの前髪をつかみ損ねて地団太を踏むことが多い私が、うまくチャンスにも乗れたという話でしたヽ(^o^)丿
うん、今回はイラストレーターとフォトショップが頑張ったね(^^)v



[PR]
by marunino_notenki | 2014-11-09 14:14 | 自由研究 | Comments(0)

趣味の川歩き、街道歩きで感じたことをボチボチと


by まるにの