東海道 吉原宿の変遷について

いやぁ、久しぶり(1年以上空いてしまいました)です。

前に蒲原宿のルート付け替えについて書いたときに、吉原宿についても調べたいと書きました。それをやっと調べてまとめることができました。

東海道に関する街道歩きのガイド本や富士市内の説明板などから、吉原宿は度々高潮の被害を受け2度付け替えられたことが知られています。
写真は岳南電車吉原本町駅前の説明板です。

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しかしながら、どのくらいの距離を移動させたの?標高はどのくらい変わったの?ということがわからなくて、いつか調べたいとこのネタをずっと寝かしてきました。
いつ宿場が移転したかはすぐ調べられたのですが、詳細な位置と古いルートがなかなか調べられなかったのです。
ようやく出典がよくわからないのですがルートまで特定できる資料があったので、まとめてみました。

一番古い、東海道が制定された時のルートです。
※ 掲載した地図はすべて「カシーミール3D」に「今昔マップ」の明治時代の地図を表示できるようにして作成したものに、さらに加筆しました。

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元々の吉原宿は現在のJR東田子の浦駅周辺でした。明治時代の地図でも元吉原村の地名が残っています。
和田川に架かる依田橋からルートは二つに分かれ、現在東海道ルートとして知られている上街道と、河口付近で富士川を渡る下街道がありました。
明治時代の地図を見ると、付近は田んぼ(もしくは低湿地 - 解像度が低くて地図記号が読めません。この時代の田んぼと低湿地は記号が似ています)が広がっていることがわかります。
また、江戸時代初期には街道だった道も度重なる水害のせいでか、消滅してしまっていることもわかります。


元吉原宿は寛永元年~生保元年(1624~44)ころの洪水高潮で度々被害を受け、寛永17年に官命で中吉原に移転しました。

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新しい宿場(中吉原)は依田橋を渡ってすぐの場所に造られ、下街道の追分が宿場の西側へ移されています。
中吉原は元吉原より内陸へ約1Km移されましたが、標高はほとんど変わっていないようです(標高データは現在の値から判断しました)

残念なことには、この移転でも天災から逃れることはできなく、延宝8年(1680)の大津波で壊滅的な被害を受けてしまったためさらに内陸へ移転しました。
それが現在の新吉原になります。

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中吉原はほぼ従来の東海道近くだったのですが、新吉原の移転に合わせて東海道も付け替えられ、蛇行するような形になりました。
新吉原は、中吉原よりさらに約600m内陸へ移動し、元吉原からは約1.6Km移動しました。
それでも相変わらずの低地での移動だったためか、この移転でも標高はほとんど変わっていません(大体標高5~6m)
下街道がいつごろまで使われたのか調べられなかったのですが、新吉原の中ほどから元の中吉原の西を通り従来からの下街道へつながる道があったようです。

この2度の移動を一つの地図に乗せてみるとこうなります。

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さらに、明治の地図に現在の色別標高データを重ねて沼津から蒲原までを見てみます。

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東海道は吉原周辺しか描いてありませんが(手抜きです)
1.沼津~原~吉原はずっと低湿地が広がっていて、東海道が通る海岸線より内陸部の方が低い
2.低湿地帯の奥には崖線にようなものがあり、一気に標高が高くなっている(新幹線や東名高速はこの崖線上を通っています)
3.吉原宿の西は潤井川と富士川の扇状地でだんだん標高が高くなっている
などがわかります。
相模湾はその地形的特徴から最奥部の吉原あたりで高潮などの被害を受けやすいそうですが、歴史や地形からもそういうことがわかりますね。

今回は海岸部の街道ネタでしたが、山に入っても江戸以前と明治以降でルートを付け替えたところがたくさんありますし、蛇行していた川の改修でルートが変わった所もあります。

私は街道歩きを始めてから「なんでここで道が曲がってるんだろう?」ということから、街道と地形の関係に興味を持つようになりました。
今のところこれが面白くてたまらないので、当分この趣味から離れることができそうもありません(笑)

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by marunino_notenki | 2017-07-24 16:53 | 自由研究 | Comments(0)

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